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雄叫びメモ帳

【読書メモ-5】キムチの四季 ―ハルモニが伝える韓国家庭料理の真髄

「キムチの四季 ハルモニが伝える韓国家庭料理の真髄」

カン・スニ (著)、チョウ・ミリャン (翻訳)

 

パラリとページを捲ったとき、美しい料理と、その料理が映える美しい器の写真にまず目が惹かれた。
見ただけで包丁の冴えが伝わる、美しい写真だった。

序文に戻って読み始めると、困惑した。
数十年前、韓国の裕福な宗家に嫁として迎えられた作者が、
毎日姑に朝四時に起こされ、少しでも起床が遅れると酷く責められるので、
早く起きるため戸口の近くに丸まって一人眠る、過酷な生活が延々と書かれていた。
彼女は宗家の嫁として徹底的に料理ともてなしの技を叩き込まれ、
紆余曲折を経て料理を教えるようになり、そしてこのレシピ本を書いたのだ。


この本のメイン部分は不思議な構成になっている。
まず写真に1ページ。
そしてレシピが1ページ。
そのレシピが生まれた歴史や背景、思い出についてのエッセイが1ページ。
イレギュラーはあるけれども基本的にこの構成だ。


エッセイには、姑や大姑、夫から受けた仕打ちへの恨みと、
宗家の嫁としてやり遂げたという誇りが交互に繰り返し繰り返し現れる。
家庭料理の教本の本来の機能として、その思い出は必要ないように最初は思った。

でも例えばこのレシピに使うのはどうして唐辛子ではなく唐辛子の種なのか。白菜の堅い葉をあえて使ったのはなぜなのか。
そこにはちゃんとそのレシピが成立するまでの理由がある。
レシピだけでは不十分なのだ。それは不可分なものだ。

 

作者の料理に賭ける熱量は凄まじい。
家族への愛、なんていう甘っちょろいものではとても割り切れない。
「宗家の嫁」という仕事を、プロとしてやり切ったのだと思う。

と同時に、最近「伝統料理が失われつつある」ことを、彼女は憂いているのだけれども、その憂いの原因にも思い至る。

(作者は「美味しく真っ当で、かつ若い世代に受け継がれる伝え方」を様々な形で模索されているようだったが)
誰かの人生を丸ごとすり潰してようやく成り立つ味があるとして、
その苦しみを進んで引き受けようという人はもはやいないのではないか、ということ。


多分それは韓国だけではなく日本も、それ以外の地域もきっと同じで、
「昔の味はよかった」なんて、自分の手一つ動かさずに口に運ぶだけの人には永遠にわからないことだろう、とも。