月観て走る

雄叫びメモ帳

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場/河野 啓【読書メモ-11】

 

 

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申し訳無いのだけれども、その名前を知ったのはエベレストでの彼の訃報が流れたときだ
 
その訃報に、皮肉や哀れみを含んだコメントが妙に多かったことが引っ掛かりはした。
詳しい事情は全く知らないが、山に登る人が山で死ねたならそれはそれで一つの幸せなやり方だろう、と思った。
その少しあとに夢、挑戦、NO LIMIT……マルチ商法かスポンサーを肩に背負ったスポーツ選手のようなキラキラしたワードが並ぶ書籍情報を見かけて、興味の範疇にないタイプのものだったので丸ごと忘れてしまった。
 
ところでウーリー・ステックという登山家がいる。いや、いた。
彼の登攀は常人離れとしか言いようのないもので、スイスマシーン……怪物 ……  そういう異名にまるで違和感が無かった。
私は階段ですら出来れば登り降りしたくないインドア派だけれども、彼の動きを見た瞬間無条件に惚れ込んでしまった。
「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」というドキュメンタリー映画では、彼や、彼以外にも静かな目をした人たちが何人も出てくる。
彼らが何でそんなものに挑むのか一切が理解不能なのだけれども、巨大な雪の壁に張り付いたちっぽけな昆虫のような、のろのろと、それでいてしっかりと、一歩ずつ進むその姿には目を吸い寄せられずにはいられない。
そのウーリーを調べていた時に、日本人にもウーリーと同様のルートに挑もうとした人がいた事を知った。
その日本人の名前が「栗城 史多(くりき のぶかず)」だと気付いたとき、ああ、そうだったのかとあのコメント群の意味が腑に落ちた。
 


そりゃあとんでもない無茶を言ったな、と。
 
そりゃあ死ぬよなあ、と。
 
 
素人目にですら、彼の身のこなしは超人とは言い難い。
それが、エベレスト。無酸素。北壁。そして西陵。
 
 
何でわざわざ死にに行ったんだろう。
どうして誰もそれを止めなかったんだろう。
そこでやっと彼に興味が湧いた、というのだから人間ていうのはグロテスクな生き物だ。
 
元々彼が世に出るきっかけにもなったテレビドキュメンタリーを制作したという作者は、人間臭く少し俗っぽくもあるタッチで、彼がどう世に出てそして消えていったか綴っている。
テレビマンという職業柄からくるものなんだろうか。
限られた尺の中で、素材をどう切り取りどう編集してどういうタイトルをつければ視聴者に最短でインパクトあるアプローチができるのか、どう「絵」として見せるか、という手技が鼻につく瞬間も、ある。
 
どのジャンルでもそれでメシの種を稼ぐ程度に修練を積んだプロなら、残酷なくらい自分のスキルは把握している筈だ。
今自分はこの辺り、だと思って慎重に綱を渡ってさえ、私たちはみっともなくポンポン落ちる。
彼だって重々承知だったはずだ。
「エヴェレスト無酸素登頂」
それが夢のまた夢ということくらいは。
それでも、途中まで彼はとても上手くやったんだと思う。
商売柄、何となくその感覚は知っている。プレゼンテーション一つで、商品価値は容易く変わって見える。
ただ、標高8000メートルという場所ではその商品価値は何ら命の担保にはならないというだけで。
 
読み終えた今、ものすごく後味が悪い。墓場荒らしだ、いう感想は的外れとも言えない。
 
ただ、寂しい山小屋で酸素を吸う栗城さんの瞬間を切り取ったその「絵」は、確かに心に残った。